変わらない関係性
パルデアポケモン図鑑アプリ、転入した学校のクラスの担任、まさにその人がアプリの開発者だった。白衣を纏ってはいるものの、よれたTシャツに破れたジャージ、そこにさらにサンダルという一見だらしない風貌だけど、いつも笑顔で怒ったところも見たことがない優しい自慢の先生。宝探しついでに集めたポケモンのデータを先生に提出するとまた満面の笑みで褒めてくれる。
放課後の図書室で窓から差し込む陽の光が薄らとオレンジ色に傾いてくる中、いつものみんなで集まって生物の課題をしていたらふと、考えてた事が口から出ていた。
「ジニア先生って怒ったり泣いたりする事あるのかな?」
「いきなりどうした? ウチ担任じゃないし、よくわからん。良い先生だとは思う」
「怒られてるところは見たことあるけどな」
「あ、黒い結晶のテラスタルレイドした時はちょっと強く注意されたな……でも怒られるってほどじゃ無かったし…」
「そこはもうやめとけよ危ないから」
「ネモは?」
「バトルの時は別人だよね。なんか……うーん、たまに、なんだけど…」
「けど?」
「笑顔が貼り付いてる……感じがする。私の気のせいかもしれないけれど」
なんとなく感じてた違和感を、ネモが言葉にしてくれてやっと、すとんと腑に落ちた。たぶんそれ。貼りついたような、作ったような笑顔の時がある。でも恐らくクラスの中で気付いているのは自分とネモくらいだ。流石ライバル兼親友兼ご近所さん。
ひと段落ついた課題をまとめてカバンに戻すと、図鑑の進捗報告を兼ねてみんなで話題の先生の元へ向かうことにした。校内はまだクラブ活動に勤しむ生徒や、授業の疑問を先生に聞きに行く生徒が残っていて賑やかだ。
「それにしたって気のせいちゃんじゃねえの? いつもジニアせんせニコニコしてるし」
「いつもだからこそ感じる違和感があるんだよ。まだまだ観察眼が甘いなペパーくん」
「そうだなあ、違和感を感じる時…顔の筋肉に若干の緊張が見られるよね。口の周りとか、眉の辺りとか」
「そうそう! 微弱だけど体温も上がってるよね! 0.1度くらい!」
「おたくらサーモグラフィーでも体内に搭載してんの? そこまでいくと怖いんだが……」
図書館から生物室までは程近い。4人で軽口を叩き合っていたらすぐに目的地に着いてしまった。夕方の生物室も図書室の例に漏れずオレンジ色に染まっている。
「はあい、じゃあこれで大丈夫ですねえ。また何かわからないことがあったらいつでも聞いてくださいねえ」
相変わらず少し間延びするような話し方で生徒に接する先生の今の笑顔はいつもの笑顔……特に違和感は感じない。ネモに目配せすると、彼女も同じように感じていたようで何を言わずとも首を振ってその意思を示していた(何せライバル兼親友兼ご近所さんだ。言いたいことはそれで理解できる)。
少し肩透かしを喰らった感はあるが、当初の目的は図鑑の進捗評価。まあ4人揃って来たことに少し驚いてはいたが、それでも先生の和かな笑顔は崩れない。
「今日はみなさんお揃いで……どうかしましたかあ?」
「先生の笑顔のウラをむぐ」
「みっみんなで、進捗確認しようと、思いまして!」
「お、俺らもたまには図鑑ちゃんに貢献しようと思ってな!!」
裏表のない(馬鹿正直ともいう)ネモの言葉を物理的に遮りスマホロトムを起動するとロトムも空気を読んだのかまっすぐ先生の元へと飛んでいった。興味の対象が目の前に現れて先生もそちらに集中している。とりあえずは誤魔化せた……のか?
「うわあ、また随分と頑張りましたねえ。あと少しで200種類も目前じゃないですかあ」
「ちょっと頑張りました。なかなか進化しないポケモン達もいて……やっぱり育成までするとなるとなかなか」
「でもここまで集めたのも本当にすごいことですよお。大変だったんじゃないですか? あと少しで目標200種類! きっとキミならできるはずです!」
先生はまたいつもの笑顔で褒めてくれた。それはそれで嬉しいのだが、やっぱり今回はハズレだったか。確認のためネモにも目配せすると肩をすくめている。これ以上の詮索は難しい……か。タイミングが悪かったのか、それとも先生の方で勘が働いたのか………だから裏で黒幕になりそうだなんて言われてるんだ。
中々的外れな文句を垂れているなと我ながら考えていると再び生物室のドアが開く。この時みんなそちらに注目していたから気付いていたのは自分だけだろう。
……先生のあんな顔、初めて見た。
「どうし、て………?」
オレンジ色に染まる生物室を訪れたのは、クラベル先生と、かつて同じ研究所に在席し、散々人を振り回した挙句何も言わずに姿を消した、かの先輩だった。
相変わらず表面的には人の良い笑顔を浮かべて、以前と変わらない、少し人を馬鹿にしたような口調で
「久しぶり」
と言う彼女の心意はわからない。
何故彼女がクラベル先生の横に立ってアカデミーにいるのか、何故自分に連絡もなにも寄越さなかったのか、何故何事もなかったかのように平然としているのか、何故、何故………
疑問が頭を占めてその場から動けずにいる自分の前に、彼女は周りの目線も気にせずつかつかと歩み寄り、覗き込むようにこちらを見上げながら再び口を開いた。
「おやあ? びっくりして話し方も忘れちゃったかな? ね、ジニア先《・》生《・》?」
「あ、……なん、で?」
「来月から美術の授業の特別講師としてお招きしました。その前に校舎を見学しておきたい、と要望があったのでご案内していたのです」
「ねー! クラベルさんってば相変わらず話が早くて助かっちゃった。来月いっぱいだけどよろしく!」
「え……あの、はい…」
差し出された右手に戸惑いながら自分の右手を差し出すと、そのまま手の平に隠されていたメモを握らされる。そうだ、こうやって自分に都合の悪い事は決して表には出さない人だった。取り分け……クラベル先生の前では。わかっているでしょう? と挑発的にこちらを見る彼女の本性は、ぼくだけが知っている。
受け取ったメモを思い切り握りつぶしてポケットに突っ込む。聡い生徒たちはいつもと様子が違う自分に少し戸惑っているようだ。いけないいけない。ここは昔とは違う、研究室でもない、別の場所で……今は教師だ。
「あの……ジニア先生、あの人は先生のご友人ですか?」
聡い人物の1人、最近新しくチャンピオンクラスに入った将来有望な生徒がおずおずと尋ねてきた。そりゃあこんなやり取りを見られていたら、好奇心旺盛な彼らを前に説明回避に持ち込もうとするなんて無謀な考えだろう。
「……彼女は先生の……研究所にいた時の先輩さんです」
「ややっ! 君たちは生徒さんだねーよろしく! 来月限定の先生だよん」
和気藹々と生徒達と打ち解けてる姿に違和感は無い。無難過ぎた紹介に少し色を付けても良かったくらいだ。
「ここは仮にも学校ですのでもう少し言葉遣いに気をつけてください」
「あ、ごめんなさい。堅苦しいの慣れてなくって」
「全く……特別講師とは言え、こちらでは一応先生であることを忘れないようにしてください」
「ふふ、は〜い。相変わらずクラベルさんは手厳しいですね」
ミミッキュよろしく化けの皮を幾重にも重ねている彼女だが、機嫌が良いのは本当らしく少し浮き足気味にクラベル先生の元へ戻ると甘んじて叱責を受けていた。クラベル先生は他者に対する言動が厳しそうに見えるが、その本質はとても優しい人物である事が理解されると、良くも悪くもその叱責は全く堪えなくなる。彼女もその類いの人間のうちの1人だ(だからなのか「ジニア先生以外で叱られてる大人初めて見た…」なんて言葉が耳に入ってしまった)。
昔と変わらない2人のやりとりを懐かしいような…どこか寂しいような、やり切れない気持ちで見ていると不意に目が合った。それがまたぼくの心情を見透かされているようで、少し腹立たしい。
「そろそろ美術室に行きますよ。ハッサク先生がお待ちしてます」
「は〜い。じゃあジニアくん…あ、今はジニア先生、だったね。また、ね」
「…ええ。また来月、アカデミーで」
彼女に触発されてサラリと嘘を吐いた。恐らく手渡されたメモには端的に時間が記されているはずだ。研究員時代から変わらない、ぼくと彼女だけのやり取りに、喜んで良いのか、落ち込むべきなのか、複雑な思いでメモの入ったポケットを握りしめた。
20時半、握りつぶされてシワだらけになったメモの時間から1時間ほど遅れてしまったが、そこに彼女はまだ居座っていた。
テーブルシティ外れ、細い裏路地に看板だけをぶら下げた、知る人ぞ知る寂れたバーが彼女との密会の場所だった。辛うじて足元が見える位の薄暗い、静かな1番奥のカウンター席、そこがぼくらの定位置だ。
それにしてもこの店の敷居を跨ぐのも久しぶりだ。カウンターの中ではあの頃よりも白髪を増やしたマスターがグラスを拭いている。ぼくが来た事に気が付くと、少し低い、落ち着いた声でいらっしゃい、と定型の挨拶を交わし1番奥の席で突っ伏している彼女の肩を叩き声をかけた。
「………んぁあ? …遅ぉい! 1時間? 女性をそんなに待たせるだなんて、紳士の風上にも置けないんじゃないの? ガラルで修行して出直してこいやこの若造がぁ」
「こっちの都合も聞かずに勝手に時間指定したのは貴女の方じゃないですか……あ、そのボトルをダブルのロックで」
ずらりと並んだ瓶からお気に入りの銘柄を選び注文すると、既に酔いが回ってる彼女も同じ物を追加した。付き合いの浅い頃……彼女の人となりを知らなければ飲み過ぎだと嗜めていたが、今となってはそれは無用な気遣いだった。実際ここからが長いので寧ろ余計なお世話でしかなかったのだ。
改めて苦い記憶が蘇り、それを忘れたくて一気に提供されたウイスキーを煽ると彼女は良いねえ、とケラケラ笑った。
「なあに? 嫌なことでもあったのジニアくん?」
「ええ、ありましたよ。現在進行形で続いてるんですけどね。……それで、釈明会見はいつ開いてくれるんですか」
「…釈明? なんの事?」
「なんで突然いなくなったんですか…」
柄にも無く、少ししおらしい空気を出してみた。流石に真面目な空気を感じ取ったのだろう。彼女の上がってた口角が下がり怖いくらいの真顔になる。注文した琥珀色の液体を少し口に含むとこちらを見ずにそのままグラスをガツンと強くカウンターに置く。まるで、これ以上詮索するなとでも言うように。
「……知ってるでしょ、所長とトラブって辞めた。それだけ」
「そうじゃなくて、なんで何も言ってくれなかったんですか、やっぱりクラベル先生と「ストップ」
白くて細い人差し指を唇に当てられて、強制的に口を噤まされた。
「必要以上の詮索は御法度だよって、最初に言ったよね、ジニアくん?」
「……」
「そりゃあ何も言わなかったのは悪かったと思ってるけどさ、こっちもいっぱいいっぱいだったんだよね」
「だから所詮身体だけの男なら何も伝えなくても良かったと?」
「……よくわかってるじゃん」
自分で言っておいて虚しくなった。彼女の言う通り元は後腐れ無い、お互いの利害が一致した……なんて事はない身体だけの関係だったはずだ。それがいつの間にか自分だけがのめり込んで、気がついた時には彼女はぼくの前から去ってしまっていた。
先に協定違反をしたのは自分だと頭の中ではわかっていても、それだけではやり切れない思いが心の内を駆け回る。
「今日呼んだのだって、わかってるでしょ? 最近ご無沙汰なんだよね〜」
「……」
「ねえ、どうする?」
これ見よがしに何処かの部屋のキーを見せながら彼女は扇状的に微笑んだ。
思えば出会った時から印象は最悪だった。
アカデミーを卒業し、憧れだったオーリム博士やフトゥー博士、そしてクラベル先生が所属している研究所に配属され滑り出しは順調も良いところだった。これで必要の無いもの全て切り捨てて自分の好きな事に好きなだけ没頭できる、そう思っていたのだ。
早速その研究所の所長に気に入られたぼくは、他の同期よりも先に所属先の施設の見学を許された。
だが足取り軽く向かったは良いものの、まさにその施設の権力者に呼び止められてしまって動くに動けない。
「君ほど優秀な人材が来てくれてウチも鼻高々だよ。ぜひともここでも立派な功績を残していってくれ」
「……ありがとうございます。ご期待に添えられるよう頑張ります」
長ったらしい能書は早く終わらせてさっさと本題に入って欲しい……なんてことを言える立場ではないという事くらいは重々承知しているが、気持ちが急いて笑顔を取り繕うのが面倒になってきていた。自分よりも能力の劣るこの男の話を聞き続けて何になる?
「あの……そろそろ、」
「む? あぁ、すまないつい話が長くなってしまった。じゃあ案内を頼んだ職員がいるから、まずそこまで行こうか」
案内係なんて要りません……と口から出かかった言葉を飲み込みようやく今日の目的が果たせそうだと素直に男の指示に従う。
ある程度この施設の設備は把握しているつもりだが、やはり実際現場で見てみると違った印象を受けるだなんて事は少なくない。フィールドワークで嫌というほど学んだ経験則を兼ねた施設の見学は、本当なら1人でじっくり行いたかった。誰かと足並み揃えて行動するのはアカデミーまでで沢山だ。
引き攣り始めた顔の筋肉がバレないように、笑顔を固定したまま相槌を打って辿り着いたのは、研究所の隅にある小さな部屋。『劇物取扱注意』と大きく表示が掲げられた扉はどこか薄汚れている。
所長がノックをするが返事は無い。少し苛立ってきているのだろう、わかりやすく大きな溜息を吐くと
「悪いね、ここの住人は少し変わり者でね」
と言ってマスターキーを取り出しドアを開けた。
採光用の窓も無い、薬品棚が壁一面に配置された薄暗いその部屋の中央には、少し大きめのローテーブルがあり、分厚い文献とつけっぱなしのノートパソコンが広がっている。おい! いるのかね!? と所長に大声で呼ばれてようやく、そのテーブルに向けて配置された2人がけのソファの山がのそりと動いた。
「はぁい…そんな大声出さなくても聞こえてますよ…」
「私は事前に伝えたはずだが? 今日は優秀な新入りが見学に来るから準備をしておけと」
「その準備でてんてこ舞いだったんじゃないですか〜。ちゃんとやる事はやってますよ」
「っ、相変わらず減らず口を叩くやつだ…いいか、君よりずっと、将来有望なんだ! くれぐれも粗相の無いように!」
さっきまでの態度が打って変わって豹変した所長は、声を荒げて鼓膜が破れそうになるくらいの大きな音を立てて部屋のドアを閉めた。
所長の変わりように呆然としている自分と異なり、気不味い空気をものともせず、今のやり取りなんてまるで無かったかのように彼女は再び気怠げに口を開く。
「……君がウワサの。へぇ〜、よろしくね」
「よ、よろしくお願いします。ジニアです」
「驚いたでしょ、あのハゲ親父ちょっとおちょくるとすぐカッとなって怒鳴り込んでくんの」
「あの……良かったんですか? 仮にも所長に…」
「いいのいいの。所長っていう肩書きを持ってるだけのただの人間だよ。で? 案内すれば良いんだっけ?」
率直に言うと、今まで接したことのないタイプの女性――人間であることに肩の力が入る。言動が全て突拍子なさ過ぎて着いていけない。尚更1人の方が良いと思ってしまった。
空気が篭った部屋を後にして、2人で白に統一された廊下を歩く。さっきまでいた日光の入らない暗い部屋とは対照的で少し眩しい。
「そうそう、この前の君の論文読んだよ」
「えっ、あ…ありがとうございます。光栄です」
「……うん。なんかいけ好かない文を書くやつだな〜って思ってたけど、やっぱりその通りだった」
「は?」
少し先を歩く彼女が振り返って笑いながら言い直した。
「想像通りのクソガキだったってことだよ」
………目覚めが悪いにも程がある。
どうやらアラームが鳴る前に起きてしまったらしい。昨日のアルコールはもう残ってない筈なのに、頭が痛い……気がする。
何も纏ってない上半身を起こし、サイドテーブルに置いた眼鏡をかけると視界が開くと同時にやっと頭が冴えてきた。
昨夜は結局彼女に誘われるがまま、あのキーの部屋へと赴き事に至ってしまった。どうやらここは彼女の住まいらしい。ベット以外の家具が置いてない、生活感のない寝室を出てダイニングキッチンに行くと何故か自分のTシャツ1枚で朝食を作っている彼女がいた。
「起きた? おはよー、朝ごはんにしよっか」
「……その服」
「え?ああ、良いでしょ。エプロンなくってさーでも自分の服は汚したくないじゃん?その点ジニアくんの服ならヨレヨレだしちょっとくらい汚しちゃっても気になんないかな〜って」
「……本当に良い性格してますよねえ」
悪意無く悪意しかない行動をする事に関して彼女の右に出る人物に会ったことがない。ぶかぶかになった肩周りや見えそうで見えない裾に色事を感じてしまった数分前の自分を自分で殴ってしまいたい。
抵抗する彼女を抑え、その服(元はぼくの服だ)を無理矢理脱がして改めて袖を通す。何するんだこの追い剥ぎ! と下着姿で抗議している彼女にはダイニングチェアにかかっていたガウンを渡した。取り返したシャツを着た時、さっきまでの残り香が鼻腔をくすぐり、下着姿の彼女と相まって正直かなり刺激的だった。
「はあ〜最悪、せっかく作ってあげてるのに気分下がったわ」
が、それもすぐに萎えた。
性格は最底辺なのに何故か家庭的な彼女の料理は正直文句が言えない出来栄えだった。思えばまともな朝食を取るのもいつぶりになるだろう。ほらお食べ〜などと上から施しをしているような彼女を無視して食べ進める。正直これにはぐうの音も出ない位に、美味しいとしか言いようがない。
「そう言えば朝チュンなんて何度もあったけど、朝ごはん食べるのなんて初めてだね」
「……そうでしたね。あの頃はとにかくヤッて終わりでしたから」
「若かったなあ。ま、キッチンあるところでシたこと無かったしね」
「ここは貴女の家……なんですか? それにしては生活感が無いですけど」
「家具付のマンスリーマンションなの。講師期間中はここを根城にしてるだけ。前住んでたところは引き払っちゃったからね」
軽々しく過去に触れる彼女にとって、パルデアを離れた事は本当になんて事のない、唯の日常のうちのひとつだったのだろうか。カロスで習ったというクロックムッシュを切り分けながら再び寂しさに似た感情が心を侵食してきた。
……昔から掴みどころのない、風のような女性《ひと》だ。
「……講師期間が終わったらどうするつもりですか?」
「う〜ん、まだ考えてないなあ。また各地を放浪するかもしれないし、ここ《パルデア》に根を下ろすかもしれないし」
「この期に及んでまた期待させるような事言わないでくださいよ……」
また目の前からいなくなってしまう幻覚にとうとう堪え切れなくなり、つい本音が出てしまった。泣き言を言ったからと言って素直に聞き入れてくれる人ではないと理解していながらも、以前言えなかったことを聞いた彼女の反応に期待してしまう。
「ぼくに貴女を引き止められる力は無いことはわかってるつもりです……でも、次に何処かに行ってしまう時は…………せめて、教えて欲しい。いきなりいなくなるのは正直……きつい」
ベットの中でも言えなかった要望を、彼女は珍しく神妙に聞いていた。美味しかったはずの料理も味がしなくなってしまった。少しの沈黙の後、肩をすくめて彼女が応えた。
「……わかった。まだ何も決めてないけど次に何処か行く時はジニアくんにも伝えるよ」
「…………約束ですよ」
こんな子どもみたいな我儘を言うなんて思ってもみなかった。せめて好いている相手の前では男らしく在りたいのに、彼女と居るとこれだから、いつものペースが崩れてしまう。だがせめてもの約束を取り付けることに成功したのだから、以前よりは関係は縮まったのではないか…………そう願いたい。
朝食を終えて出勤を考えなければいけない時間になってしまった。別れ際、玄関先で再び引き止められ銀色の鍵を渡される。
「……これって」
「そう、この部屋のカギ」
聞き間違いだろうか、いやしかし渡された銀色の平たい物体は確かに自分の手の平に存在している。朝食の時から期待値が高まり過ぎて心臓の鼓動が速くなってきた。いや、彼女の事だ。上げて上げて落とされる、なんて事がいったい今まで何度あったことか……いやしかしでも、
「いつでも来てよ。待ってるから」
「いや、それこそ待ってください。……確認しますけど、………貴女はぼくの事をどう思っているんですか?」
期待するなと言う気持ちと、もしかして……という気持ちが混ざって落ち着かない。長年の思いが報われるのか………?
「どうって……都合の良い竿」
「失礼します」
別れの挨拶もそこそこに、思い切りドアを閉めてやった。