まずはご挨拶ですが隣人です
「掛け持ち……ですか?」
今月の伝票を眺めながらこちらを見ることもせずズピカのような頭になりかけている上司は淡々と、無慈悲に私に告げた。
「そうそうあのお偉いさんのご指名でね。良い機会だから担当増やしてね。その方がこっちも楽だから」
はいこの話はお終い異論は認めません、と言うようにその手に持ってた伝票を纏めて机に置くと、その上司は乱雑に置かれた書類の山から一枚の紙きれが挟まっているクリアファイルを取り出しはいこれ、と私に押し付ける。
「これ依頼主の詳細ね。すぐ契約始まるから目通しておいて」
こちらに決定権なんてものはもちろん存在せず、だがせめてもの抵抗を訴える為に無言で受け取り、個人情報が並んだその用紙を眺めた。男性、一人暮らし、自宅所在地、家の間取り……備考・ポケモンリーグトップチャンピオン様からのご紹介…………私の担当だ。
ここテーブルシティ他、カラフシティ、ハッコウシティに拠点を置くこの事業所はハウスキーパーを依頼に応じて各家庭に派遣する家事代行会社だ。規模は小さいながら細々と営業している。私も派遣される側の一人。色々あって身寄りのなくなった私が食い扶持を稼ぐのには家事くらいしか思いつかず、たまたま見かけた募集要項に該当したのがここだった。
後ろ盾がなく右も左もわからない私は、この職場にとって所謂厄介な依頼主達を回すのに都合が良かったらしく、今日みたいな事はこれが初めてではない。
リーグトップのようなお偉いさんなんて正にそう。何か粗相をするんじゃないか、失敗した時の責任は誰が取るのか(上司が上司なので職場に期待は持たれていない)、様々な憶測が飛び交い派遣される側の皆が嫌厭する中、何も知らないメリープが飛び込んできたのだから生贄にはぴったりだ。
そうして流されるがままそのお偉いさんと対面したのだが、先輩方の心配は杞憂に終わるほど良い人で、寧ろ当たりの現場だった。任されたのは自宅マンションの掃除、消耗品などの備品買出し、料理の作り置き等基本的な家事代行。何せリーグの運営だけでなくトップとして挑戦者の対応、アカデミーの理事長も務める方だ。家にいる時間の方が少ないだろう。……この人なら代行に頼まずともなんでもできそうな気がするけども。
人当たりも良く、パルデア各地のお土産をもらったり、最近では世間話も普通に話せるようになった。あまり人付き合いが得意ではないのだが、変に入っていた肩の力も抜けてきている気がする。
そんな彼女が仲介する人だ。恐らく悪い人……ではないと思う、たぶん……。初顔合わせは…………明日。いくら何でも直近過ぎる。また急いで予定を調節しなければ。
今日分の報告書を作成しながら卓上カレンダーを見て今後の動きを考えていると、仕事もそこそこに帰り支度をしている上司が視界の隅に入ってしまった。面倒な仕事は(|私《部下》に押し付けたから)もう大丈夫だとでも思ってるらしく、るんるん気分のようだ。殺意が上がった。
報告書を書き上げ、同僚達の手伝いや後片付けを終えて事務所を出た時にはもう良い時間になってしまった。要領が悪いのか、単純に宛てられている件数が多いのか、いつも職場を出るのは最後の方だ。最近は頼まれごとも多くなってきている気がする。……ここで断ることができるのならこんな遅くなることもないのだろう。
気持ち的にも身体的にもフラフラになりながら帰路を行く。こういう時に家と職場が近くて良かった。早く安心できるあの部屋に帰りたい。
テーブルシティ東側にある小さなアパートメントは見た目もこの街並みに合わせているのか、おしゃれで……でも少し格調のある物件だ。部屋も角部屋で陽当たりも良く広さもそこそこある。なのにずっと空部屋で、家賃も相場よりずっと安かった。……そう、曰く付き物件である。
とにかく雨風凌げて寝れる場所を求めていた私には条件が良過ぎたので全く気にならなかった。特に人死があった訳でもなく、置いていた物が動くポルターガイスト現象くらいしか実害がないので今のところ引っ越すつもりもない。
そう言えば先週末、隣室に引っ越してきた人がいたようだ。まだ会ったことはないが隣も若干安かった気がする。私と同じようにそういう現象が気にならない人なのだろう。まあいい大人が幽霊の一人二人見たところで驚きはしない……なんて余裕を浮かべて階段を上がり、自宅の鍵を出して早速口から出そうになった悲鳴を手で抑えて飲み込む。
玄関扉の前に、人が倒れている。
「……どうしよう………生きてる?」
突然起きても飛び掛かられないように、静かに壁に沿って恐る恐る近付く。試しに爪先でツンツンと足を突いてみるが、反応はない。見たところ寝ている………のだろうか。
紫色のゆるいTシャツ、ジャージの服の上に白衣を羽織り、うつ伏せになってその男性は寝息を立てていた。彼の靴だろうか、つっかけサンダルが片方脱げて投げ出されている。寝息に合わせて上下する背中を確認できなければ本当に事件現場と見間違えてただろう。
事件性がないなら良かった。ならばあとはこの巨体を押し退ければ良いだけだ。
「ぐっ………う、おも…」
腰骨を押して上手く扉の前にスペースを作る。大きく”く”の字に身体が曲がってしまっても起きる気配はない。
この人はいったい何をもってこんな所で眠ってしまったんだ? 流石にこの状態で放置するのも忍びないので、せめて上半身だけでも同じように押し出してやろうと試みる。
すると部屋のドアからするりとジュペッタが顔を出した。気配はあるのになかなか部屋に入ってこない主人が気になったらしい。私と横たわってる人物を見て何を言わずとも状況を把握したらしく、腕を下から上に上下させて転がすような仕草をした。なるほど、無理矢理押し除けるより転がした方が早いのか。アドバイス通りに上半身を転がすと彼はゴニョゴニョ言いながら仰向けになりその御尊顔が明らかになった。
太い眉に特徴的な六角形の眼鏡をかけたそのレンズの奥の眼は閉じられているが、その瞼にあるまつ毛は影ができるほど長い。スッと通った鼻筋に薄い唇、身なり(と状況)は不審者そのものだが案外若々しかった。……なんかこの人、見たことある気がするな………?
ここで思い出そうと顔を覗き込んだのがいけなかった。不意にバチっと眼が開く。
「ぅわっ!?」
「っ!?!?」
至近距離で交わる視線に驚いたのは私だけではなく彼も同じようで、私が身を引くよりも早く上体を勢いよく起こしにかかってしまった。丁度彼の額と私の顎が当たり、ガチン! と頭蓋骨の中で鈍い音と痛みが響く。
「い゛っ!!??」
「っ〜!!!???」
彼は額を、私は顎を抑えて痛みに耐えている様子をジュペッタが心配そうに見ている。そうか、ゴーストはこういう痛みがわからないのか……羨ましい。
「……す、すみません、大丈夫ですか?」
「いえ、こちらこそ……余計なことをしてしまい……」
意外にも彼の方が回復は早かったようだ。若干赤みは残っているがたんこぶのような腫れはできていない。まだ痛みが引かない私は涙目でそう答えるので精一杯だ。舌を噛まなくて良かった。噛んでたらこうして話すこともできなかっただろう。
「あぁごめんなさい! 唇が切れちゃってます!! えっと、何か拭くもの……」
「いや、あの……おかまいなく……」
「あった! ごめんなさい、ひとまずこれで抑えててください〜!」
「ぅぐ!?」
無理矢理口元をタオルハンカチで押さえつけられ反論もできなくなった。こうもテンパられると逆に冷静になってしまう。
「そうだ何か冷やすもの持ってきます! ちょっと待っててくださ、うわあ!?」
「あ、え?」
その場を離れるために立ち上がろうとしたようだが、白衣を私が踏んでいた為バランスを崩し、もつれて再び二人で倒れ込む。硬いコンクリートの床に押し倒されたような状態だが、不思議とどこも痛くない。彼が気を利かせて頭を抱えてくれていた。
……そこは素直に感謝しよう、おかげで頭を打たずに済んだ。問題はもう片方の手の置き場である。
「ご、ごめんなさ…? ………あ」
「……」
「すっすす、すみません!! わざとじゃないです!」
「………そうですよね。わざとじゃないのは重々承知してます」
ささやかな胸の膨らみから手を離し両手を挙げて無罪を主張する彼に少し安堵の色が浮かぶ。
「でも一回は一回です」
どこかの漫画のキャラが言っていたセリフを言って私は振り上げた右手を渾身の力で彼の左頬に叩きつけた。
上司にもらった調査書に書いてあった通り、新しく担当になった家に向かうと白髪の紳士が迎えてくれた。アカデミーの校長を務める彼、クラベルさんはそのアカデミー繋がりでオモダカさんからウチの会社を、紹介してもらったらしい。
「突然お願いしてしまってすみません……クラベルと申します。もうご存知かと思われますがアカデミーに勤めております。これから課外授業が始まる関係で忙しくて自宅まで手が回りそうにないのです」
「いいえ、その為の私たちですから。これからよろしくお願い致します」
挨拶もそこそこにリビングに通されて席に着く。校長を務める以前は研究者だったと聞いていたが、リビングにまで広がる立派な本棚に収まった専門書の数や一般家庭に置くには重厚過ぎる機械類を見ると確かにその片鱗が窺える。
「……ではクラベル様もこちら御自宅の清掃、備品の買出しなどの代行業務のお申込でお間違いないでしょうか?」
「はい。食事の方は……平日の分だけお願いしたいのですが」
「かしこまりました。では清掃する範囲について念の為見て回ってもよろしいでしょうか?」
「はい、ではこちらから……」
やはりオモダカさんから紹介されるだけある。こちらが恐縮してしまうほど物腰も丁寧で話しやすい。お互い席を立ち先ずは玄関周りから確認しようと向かったところ、タイミング良く来客のチャイムが鳴った。
「あぁ………申し訳ありません、約束事があったのを失念していました。すぐに終わるので少しお待ちしていただいてもよろしいでしょうか?」
「はい、むしろ私の方こそお邪魔になりませんか? なんならお茶の用意でもしますよ、キッチンの様子見もできますし」
心底申し訳なさそうに会釈するとお願いします、と言ってクラベルさんは玄関に向かった。あんな人が校長を務めているのならさぞかしアカデミーでも人望を集めているのだろう。
キッチンを見ても整理整頓されたティーセットや綺麗に並んだ食器類から几帳面さが見て取れる。オモダカさんと言いアカデミー関係者はみなこうなのだろうか。先生、という人間も馴染みがない人種だ。
良い色が出た紅茶を二つ、並んだティーカップに注ぎシュガーポットとミルクピッチャーを同じトレーに並べて準備は完了。まだクラベルさんの好みまで把握してない為一般的な分量だ。レモンでも添えてた方が良かっただろうか。まあまだ初日だし、これから聞いて知っていけば良い。
「お茶をお持ちしまし、た……」
「あっ!?」
「ありがとうございます……?」
湯気の立つ紅茶を持ってリビングに戻るとそこには左頬に綺麗な赤い手型を残した昨日の男がクラベルさんと並んで立っていた。明らかに動揺した私達に気付いたのだろう。クラベルさんは怪訝な顔をしている。
「ひょっとしてお知り合いでしたか?」
「えぇと、そのですねえ……」
「そうですね、部屋に帰れなくされた挙句襲って襲われた関係ですね」
「……ほう」
「ちょ、言い方ぁ!? 色々誤解があります! 違いますからねクラベル先生! 決して疚しいことはしてませんから!」
「疚しいことねえ……」
その手型の理由を忘れたのかと視線を送る私の横でクラベルさんは眼鏡を光らせている。
「だっ、だからあれはわざとじゃないんですってばあ!! 事故なんですってえ!!」
「事故……それならもう少し大きかった方が良かったですよねえ、揉み応えもなかったでしょうに」
「いや、そこまで言うほどない感じではなかったような………」
「ほらあ!! 事故に見せかけてしっかり覚えてるじゃない! このむっつりスケベ!!」
「ちっ違いますってば!」
「御二方」
仮にもお客様の前であることをすっかり忘れてた。さっきまで穏やかだったクラベルさんの背後に暗雲と雷が見える。
「少し座って話をしましょうか」
この後小一時間、何故かこの男と一緒に仕事依頼主からお説教を受けてしまい業務が押してこの日も残業三昧になってしまったのは、たぶん全部アイツのせい。