不敵な科学者

ちょっと休憩と思っていたのに


忙殺されるとはこういうことか。
新たにアカデミーで仕事を始めて早三ヶ月。まだ教材や備品が整頓しきれていない職員室の片隅でついこんな事を思ってしまう程度には、疲れきっていた。職員一斉交代の仕事量は伊達じゃなかった。そりゃそうだ、新規オープンの飲食店と同じようなものなんだから。
引継ぎがあったとは言え、慣れない作業、施設、人……正直何もかもが手探りで、本当にタスクをこなせているのか怪しい。
あまりの仕事量の多さに机に突っ伏して現実逃避に洒落込んでいると、視界の端にいた女性が香ばしいコーヒーの香りをたなびかせながら声をかけてくれた。

「お疲れさまです。コーヒー入れたんで良かったらどうぞ?」
「あ、えっと…タイム先生。ありがとうございます」
「やっぱり最初はキツいわよね。あら、まだ熱いから気をつけて」

だらしなく伏せていた上半身を起こし、まだ湯気の立つ液体を有り難く頂戴する。コーヒーの温かさもあるが、何よりタイム先生の優しさが骨身に沁みる……。

「先生こそお疲れじゃないですか? 私はまだ自分の事をやってれば良いけど、先生達は生徒っていう相手がいる中での仕事じゃないですか。他に気を遣いながら仕事をこなすなんて私にはムリ……」
「あらあら。そうね……確かに大変な事も多いけど、あなたみたいな裏方がしっかりしてるからそこまで大変じゃないですよ。あなたがまとめてくれてる資料、とってもわかりやすいもの」
「タ、タイム先生〜」

優しい労りの言葉に思わず涙が滲む。今日はもうこれだけで職場に来た甲斐があったってものだ。この優しさの塊の様な先生が、実は元ジムリーダーだったなんてまだ信じられない。貴女にならいくらでも砕かれて良いです。むしろ砕いて。
さて……いつまでも休憩しているわけにはいかない。タイム先生のおかげで少し気力も回復したことだし、残りの仕事に取り掛かろう……。各種役所やリーグとのやり取り、食堂の食材発注、職員の退勤管理……ようやく今日のノルマもあと一つだけとなり、これで帰れると晴れやかな気持ちで手に取ったその書類は、

危険薬物発注申請書
申請者: 生物室 ジニア
希望支給日: なるはや⭐︎

「ありゃ、オヌシまだ帰らない?! もうグッバイさよならの時間は過ぎちまったよ!?」

既に日は沈み、校内の教室も殆ど電気が消えている。
外の宵闇に負けないくらいの絶望を背負って生物室前で立ちすくんでいると、珍しくセイジ先生と鉢合わせた。既婚者である彼は私と同じように寮住まいではなく、仲睦まじい奥さんが待つ家がある。いつもの彼ならとっくに帰宅している時間帯だ。

「セイジ先生こそ、こんな時間にどうしたんですか……? いつもならもうあったか〜い家に帰ってる時間じゃないですか……」
「わお、相当シャチクしてるネ! クラベル校長もビックリして腰がダウンよ。ワシは忘れ物したからちょっとだけリターンしたんだわな」
「……そうですか。いや私としても早く帰りたいのは山々なんですけどね、この書類、結構大事な書類なんですけど不備がありましてなんせ危険薬物ですからね、間違いなんて起こしちゃダメじゃないですかなのになんでこんな書き間違えますかねって話てか直接話さなきゃダメなのこれねえどう思いますセイジ先生ぇええ!!!!」
「Calm down! Calm down! ダイジョブ、ジニア先生とても優しい! それエンドですぐカエレ!」

思わずセイジ先生に当たってしまった。
そうだ、たかが書類の修正だ。言って、聞いて、直して終わり! のだけのはずなのに、どうも一歩踏み出せない。人の気配がほぼ消えた夜のアカデミーで彼に会うことに頭の中で警鐘が鳴る。仕事に私情は持ち込まない主義だったが、蓄積された疲労が思考を停止させて個人的な感情を優先させてしまっているのだ。
……いやいや、よく考えてみろ。仕事が始まって三ヶ月、今日までの間に直接話す機会は何度かあったじゃないか。流石に職場で……清く正しきこのアカデミーでそんな大胆なスキンシップをしようなんて思わないだろう。

「そうだよ。うん。ここは職場、これは仕事! 大丈夫!」
「そうそう! そのハート大事! 当たってクラッシュしてグッバイさよならなんだわな!」
「ありがとうセイジ先生! なんか勇気出てきました!」
「そのイキオイグッドね! イッキウチは先制した方がウィン、早い者勝ちよ! それじゃワシはワイフが待ってるから今度こそグッバイね!」

流石言語学を指導している先生だ。勢い九割、応援一割、当たって砕けてさっさと終わらせろと簡潔に励ましてくれた。最後はなんだか投げやりに聞こえた気がするが………彼も早く帰りたいのだろう、うん。……でも砕けちゃだめじゃない?

彼の根城になっている生物室――ドアの隙間から薄暗い廊下に少し明かりが漏れている。完全に消灯してないって事は誰かしらいるのだろう。大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせるとそのドアに手をかけた。

「…失礼します、ジニア先生……?」
「……」

いた。けど……様子がおかしい。教室の灯りは教卓のノートパソコンのみ。薄暗い中ぼんやりと光るそのパソコンモニターの前に彼は立っている。嫌に静かだ。

「(…さっさと済ませて帰るに限るな)ジニア先生、提出した申請書類で確認したい訂正点がいくつか…」
「……」
「…ジニア先生?」

やっとこちらを向いたと思ったら、まるで私の声など聞こえてないかのようにゆらりと近寄って来る。顔は暗くてよく見えない。呼び掛けにも答えない彼に少しイラつきながら、再び強い口調で声をかけた。

「ジニア先生、聞いてますか? もらった書類、を」

ドンっと鈍い音が耳元で鳴る。背後は壁、右頬のすぐ横は彼の左腕、そして私の左肩に、ゆっくりとその顔を埋めて来た。ボサボサの髪の毛が首筋に当たってくすぐったい。

「ちょ、え、っ!? こ、ここがっこ、教室!!」
「……」

慌てて逃げようとするも、体格差のある彼に覆われて逃げ場が無い。が、以前のような抑え込むような力は入っていない。重力に負けたように力が抜けて肩に重みがかかる。
やはり何かおかしい。

「じ、ジニア先生…?」
「…………ぉ…、…ぃ、…」
「え…?」
「…おなか、…すい、た」
「は?」

彼はぼそりとつぶやくとそのままズルズルと倒れていく。私は支えきれずに彼を抱えた状態でその場に腰を落としてしまった。

「……どうぞ」
「うわあ、ありがとうございます」

照明を点け、明るくなった生物室で彼は私の夜食を食らう。あの後、自分用に夜食を持って来ていた事を思い出した私は何とか彼を支え直し生物室で待機させ、職員室に置いてたカバンを回収し、彼にそれを提供してあげた。食堂はもう閉まっていた上、購買よりも職員室の方が近かったのだ。

「サンドイッチにスープまであるなんて……準備良いですねえ」
「今日もどうせ遅くなると思ってたので…。味は保証できないけど」
「いやいや、充分美味しいですよお」

まさかこんな形でセイジ先生に指摘されたシャチク魂が活きるなんて思いもしなかった。人の振り見て我が振り直せ…か。……夜食まで用意して仕事するなんてどうかしてた。そんな状態じゃあ彼のことも指摘できない。明日からもう少し肩の力を抜いて仕事しよ。

「で、倒れるまで何してたんですか? 断食?」
「アハハ、昨日の夜から今日のお昼まで食事抜いて研究続けてましたあ。波に乗っちゃって止まらなかったんですよねえ…あ、コーヒー飲みます?」
「じゃあいただきます」

実験用のビーカーに注がれたコーヒーだなんて彼らしいと思う。校長に見られたら十中八九怒られるだろうに、なんの迷いもなく透明な容器に注いでいく仕草は手慣れたものだ。さらに親切なことに教卓の引き出しからミルクポーションまで取り出しビーカーに添えてくれた。……これは常習犯だな。
お互いビーカーに口をつけて一息つくと彼が口を開いた。

「ところでキミこそこんな時間まで何してたんですか?もう時間も遅いですよ?」
「あぁ〜………仕事してました。はい、これで(私が)帰れるんでさっさと指定箇所を直してください。急ぎの物なんですよね?」
「あぁ、これですねえ。……あれ、この薬品…すみません、これ資格証の写しが必要な物でしたあ。ちょっと取ってくるんで待っててもらっても良いですか? すぐ戻ります」
「……わかりました」

彼が出て行くとやっと、本当に、終わりが見えた事に安堵して比喩でなく力が抜けた。机に突っ伏して腕を枕にして思い返す。まあ、多少トラブルはあったが仕事中のやり取りは何ら問題ないじゃないか。何を意識してたんだ。
………あぁ、…なんか、安心、したら…ねむ…い、……

キーボードをカタカタとタッチする音と、コーヒーの香ばしい匂いと薬品の混ざった匂いが鼻腔を刺激する。

「……う、」
「…ああ、起きましたぁ? もうちょっと待っててください。あと少しで、キリが良いんで」
「ん…、? ………!!!!!!??」

人間、びっくりすると寝起きでも反射的に動けるようで。ガターンと大きな音を立てて椅子を倒しながら立ち上がる。

「……寝てました?」
「寝てました」
「どれくらい?」
「二時間半くらい」

急に立ち上がっても落ちない、肩にかかっている白衣は明らかに彼の物だ。薬の匂いはこれか。ポケットに色々と詰め込まれてる所為で些か重い。私がうたた寝していた机の上には修正された申請書類と直前に言っていた資格証のコピーが置いてある。

「あ、これも……修正ありがとうございます」
「いいえ〜」

パソコンに向かっている彼は、ゾーンのようなものに入っているのだろう。返事はするものの此方には一瞥もくれずひたすらに文字を打つ。
彼の授業は年齢が不規則に入り乱れるこの学校でもわかりやすく丁寧で、本人の人柄も相まってか評判が良い。
今はまたその……先生の時とは違った、研究者の顔をしている。
話しかけるのも野暮だろうと、彼の作業が終わるのを待つ事にした。

時刻は日付も跨いだ頃、生物室に遊びに来たヤミカラスと戯れていると

「よし」

と、久方ぶりの声を聞いた。

「終わりました?」
「終わりました」
「お疲れ様です」
「お疲れ様でした」

そしてふ〜っと大きく息を吐くと目頭を揉んで天井を仰いだ。彼も相当疲れているらしい。

「授業と並行して研究を続けるのも大変そうですね」
「ん〜、でもどっちも好きでやってる事ですしねえ。研究もほぼ趣味みたいなモノになってきてるし…。キミこそ仕事、すごく頑張ってるように見えますけど?」
「私は……そうだな、裏方作業が好きなんだと思う。アカデミーの主役って生徒達で、その生徒達の為に先生がいて、その底力を支えてるのは私なんだって考えるとなんか頑張れる……気がする」

まぁ、前の職場でも同じように務めてたつもりだったけど、報われない事もあるのだとある意味で経験となった。気持ちの切り替え、大事。

「………でも居眠りする位働き詰めになるのはどうかと思いますよ?」
「そっちこそ、食事を抜く位没頭してたじゃないですか」

彼は確かにそれもそうですね、とパソコンを閉じて、おもむろに立ち上がる。ヤミカラスたちは何故か逃げるように飛び立ってしまった。

「あ、白衣ありがとうございました。少し眠れたお陰でスッキリしました」
「……」
「…ジニア先生?」

不穏である。眼鏡が反射して表情が見えない。
あとは借りてしまった白衣を返せればそれで良いと思っていたけど、他に何かやらかしたっけ……?

「肩を、貸してください」
「は?」

彼はドスンと勢い良く私の右隣の席に座ると机を背もたれに、頭を此方に傾けて、寝た。その間三秒である。
より至近距離で見れるようになったその顔には濃い隈ができていた。とりあえず危ないので眼鏡を外す。相変わらず長い睫毛が憎たらしい。
ヤミカラス達が戻ってきて膝の上に乗っかった。右側の眠っている人物と膝上の可愛らしいポケモンが私の身体を心身ともに固定させ、本格的に動けなくなる。
というか、ダメだこれ、横の体温と…膝が、温まって……また、ねむ…

「で、お二人揃って、生物室で眠ってしまった…というわけですか。朝まで」
「はい…」
「いやあ、お陰で論文も佳境まで書き上がりましたあ。完成したら是非読んでくださいよお、クラベル先生」

……やってしまった。まさか朝まで寝入ってしまうなんて、本っ当に失敗した。
発見したのがクラベル校長で辛うじて首皮一枚繋がったようなものだが、仮にそれが生徒だった時の事を考えると……背筋が凍る。

「まったく…ジニア先生は毎度のことですが、あなたまで風紀を乱すような事をしでかすなんて……生徒に示しがつきません」
「おっしゃる通りです、はい…」
「え〜いやだなあ先生、まだ乱してないですよお。健全です今は」
「ちょ、今とかまだとかじゃなくてこれからもありません!」

この後に及んで何を言ってるんだこいつ!

「はぁ…とにかく、お二人共『限度』というのを考えて勤務してください。本当に仕事のできる人、と言うのは勤務時間内にやるべき事をやれる人のことですよ」
「はい、すみません…」
「はあい」

怒られ慣れているのか、横の彼はヘラヘラと笑って答えている。二人はアカデミーに来る前からの付き合いらしいが、昔からこうだったのだろうか。……クラベル校長もだいぶ苦労したんだろうな。
お説教に堪えない彼に呆れたのか、校長は眼鏡のブリッジをあげながら何度目かわからないため息を吐いた。

「今回の処遇についてですが……そうですね………あなたは今日はお休みなさい。疲れが溜まっているのでしょう…。明日からまた『程々に』勤務お願いします。…ここまでお伝えしておいてさらに言及するのもあまり信憑性に欠けるかと思いますが、私はあなたの能力を買っているのですよ」
「…! はい!」
「ジニア先生は…そうですね、先生も今日はお休みしてください」
「ええ? いいんですかぁ?」
「但し、本日中の研究、及びインターネットの接続は一切禁止です」
「そんなあ……」
「良いですね?」
「はぁい…」
「お二人とも、今日はゆっくり休むことが仕事です。……それではまた明日、お会いしましょう」

「「失礼しました(あ)」」

時刻は朝七時……窓から差し込んでくる朝日が眩しい。本当に校長先生がクラベル先生で良かった。寛大な処置に感謝しなければ。

「なんか親に朝帰りがバレたような気持ちです」
「なに馬鹿なこと言ってるんですか。今日はもう帰宅するだけなんですからさっさと行きますよ」

太陽が黄色く感じる。やはり横になって眠れなかったのは大きい。寝たはずなのに疲れている。彼は彼で研究、ネット接続禁止が相当効いてるらしい。流石クラベル校長。彼の痛いところを突くのが上手い。

荷物を取りに生物室に戻るとそこには湯たんぽになったヤミカラスが待っていたぞと言わんばかりに待機していた。

「ああ、このヤミカラスもキミのことが気に入ったみたいですねえ。抱き枕として才能ありますもん」
「……は?」

彼は机上のヤミカラスに目線を合わせて話しかけるように、此方を見ずに続ける。

「あーもう、つい誘惑に負けちゃったなあ。本当はちゃんと帰すつもりだったんですよ。学校だし。でも…ちょっと目を離してる隙にあんな無防備で寝てたら……心配になるじゃないですか、色々と」
「あの……」
「いくら職場だからって、全く意識されなさ過ぎているのもなぁんか……悔しいねえ」

ヤミカラスはそうなの? と彼に合わせるかのように首を傾げている。

「じゃあ……もう少し、意識させちゃおうかあ」
「え?」

すくっと立ち上がり、此方に歩み寄ってくる。あのニコニコの笑顔で。
再び頭の中で警鐘がなる。思わず後ずさるも、すぐ壁に追い込まれ、逃げ場が無くなった。
これは、マズイ――

ドンっと壁に腕を突かれ、行き場の無い目線を彼に向ける。昨夜と違い、表情がはっきりと見える。
彼はもう、笑っていなかった。

「貴女のことが好きです。」