不敵な科学者

糸が切れる


突如始まった同居生活(同棲とは断じて違う)は案外素直に受け入れられた。心配していた手持ち達も一部を除き、本来のトレーナーがどちらかわからないほどに馴染んでいる。その一部であるカラミンゴは馴染むまではいかないが、仕方なく受け入れている感じだ。少なくとも背後を狙って攻撃したりはしない(私は偶にラランテスに狙われている)。ジニアのポケモンも偶にボールと部屋とを行ったり来たりしているが、大柄な彼らにはこの部屋は窮屈そうだ。

人間はまぁ何とかなるだろうと思っていたが、一番の懸念事項はレントラーだった。彼のポケモン達はまだ良いとして、実際に対峙した私のポケモン達は彼女の姿を目にした瞬間、想像通り狼狽えていた。ヨルノズクでさえ羽毛を逆立て威嚇し、騒ぎ立てている。レントラーは強者の余裕なのか、素知らぬ顔付きで寝心地の良い場所を探し、窓際の隅……まるで物影に潜むかのようにカーテンの影になる場所を陣取った。
最初に動いたのはカイデンだ。攻撃の意思がないと分かるや否や、真っ先に近寄り興味津々といった面持ちでレントラーの側で一羽で何か喋っている。それにワタッコ、ヤミカラスが続いて近付いて行く。少し鬱陶しそうだがお互いに敵意は無いと通じたのだろう。カラミンゴ、ヨルノズクも他のポケモン達の様子を見て徐々に緊張が解けていったようだった。
人間同士の取決めも行う。お互い仕事については不干渉にする事、どちらかが留守の時は部屋に無断で入らない事、自分のことは自分でする事………等だがこの男、必要最低限の生活レベルはあるのだが、放っておくと研究に没頭して平気で食事を抜いたり、何日も続けて徹夜をするので心配してウロウロするラランテスを見兼ねて声をかけるようにした。その食事も一人分も二人分も変わらないためまとめて私が作ってしまっている。なんだか最近体の調子が良いんですよね〜なんて言ってるが誰のお陰だと思ってる感謝しろ。というかなんの為に同居を始めたと思っているんだ。

こんな具合で一見問題はなさそうに思えたが、やはり職場へ通勤する時まで誰かと連れ立っていなければいけないのはなんだか窮屈だ。自宅、校内とどちらも人の目があるので一番狙われるとしたらこの通勤時間帯、用心に越した事はないのはわかってるつもりだが……。それに加えて、戦闘となっても逃げる時間稼ぎくらいにはなるだろうとポケモンも連れ出すようにもなった。普段仕事中はお留守番を任せているものだから、みんな大人しくしてくれるか心配していたが何となく状況を理解しているらしい。カラミンゴなんかは出かける準備を始めると自らボールに入るようになった。理事長にお願いしてたひこうタイプの専門家の人にも近く会えるらしいし、今後のためにも彼らが強くなる分に越したことはない。……そう思ってはいるものの、できればそんな状況にならずに事態が収束して欲しいと思うのは、甘い考えだろうか。

クラベル校長から話を聞いて二週間、特に音沙汰無く過ごしていると再び校長室から呼び出しがかかった。理事長からも事前にメッセージが入っていたが、どうやら例のシステム改修業者が来たらしい。
あまり気が向かないものの、一度受けてしまった以上業務と割り切って遂行するしかない。軽く深呼吸して校長室のドアを開けるとそこにはオモダカ理事長、クラベル校長、そしてかつて上司だった背の高い男がいた。

「副、社長…」
「やあ、久しぶりだね。会いたかったよ」

きっとこの世の大半の女性は彼に釘付けになるだろうという笑顔を浮かべて挨拶をする。前職で世話にはなったが転職するきっかけにもなった人物でもある為、正直関わりたくない。

「御知り合いだったのですか?」
「ガラル本社で同じプロジェクトチームを組んでいました。その後すぐに退職してしまって……弊社としては大変な痛手でしたが、こちらに再就職したのだと聞いていても立っても居られず理事長にお願いしたのです。今の私の立場で言うのもおかしな話ですが、彼女の仕事ぶりは目を見張るものがありますよ」
「……恐縮です」
「なるほど、旧知の仲であるのなら業務もやり易いでしょうね。……では今後のやり取りは直接お二人に任せてもよろしいですか? 資料も頂いたので都度都度報告は彼女から私にしてもらいます」
「はい、構いません」
「大丈夫です」
「今日は顔合わせとの事だったので校長室に来てもらいましたが、今後はシステムルームで打ち合わせ等をお願いします。エントランスの受付に行けば通してもらうように話はつけてありますので」

仕事だ仕事だと自分に言い聞かせて冷静を装う。何だろうか、元上司の視線が不快なのだ。気付いてないところでやっぱり前職での出来事がトラウマにでもなっているのだろうか。

「そうだ、改修システムのプロトタイプがハッコウシティのパルデア支社システムに組み込まれているから一度見に来てくれないか? 見ておいた方がより一層、イメージしやすいと思うのだが……?」
「あ、はいそれなら……業務時間内でしたら」
「じゃあ明日の夕方くらいはどうだろう。条件がついて申し訳ないが今はそこしか空いてなくてね」
「わかりました」
「それなら直行直帰でかまいませんよ。丁度週末になるし、息抜きがてら良さそうじゃないですか」

私の荒れる心境を置いて和やかに話は進む。息抜き……ガラルとパルデアで場所は違えど私にとって敵地に乗り込むような面持ちなのだが、そんな余裕あるのだろうか。というかこの話の流れで――理事長、校長が揃ったこの状況で――私が断れる術は無い。断れないことをわかって………?
不快感が時間と共に増していく中、この業務を引き受けことを若干後悔しながら私は三人の話を聞いていた。

「という訳で、明日はハッコウシティから直接タクシーで帰ります」

シャワーを浴びてホカホカしながら出てきた彼に告げると難しい顔をされた。

「……本当なら同行すると言いたところですがタイミングが悪いですねえ……明日のその時間、丁度ガラルから来る先生の対応を任されてて…」
「来客対応を先生が?」
「界隈では有名な先生なのでわからなくもないんですが……クラベル先生も留守にするらしくてぼくにお鉢が回ってきた感じです」
「………あの、狙われてるだなんて、やっぱり人違いとかじゃないですか? ここまで気にかけてくれて申し訳ないし、実際今日まで何もなかったんだし…」

わりと勢いで同居を許してしまったが、彼も私と同じように窮屈に感じている時があるのはわかる。特にこの生活では彼の生業である研究に必須なフィールドワークに出かけられない。お互いに自由な時間は必要なのではないだろうか。

「……いや、まだわかりません。それにわからないのなら調べれば良いんです。実は今、何か手がかりになるかしれないと思ってレントラーの遺伝子を専門機関に分析してもらってます」
「レントラーの?」
「そうです。今ある手がかりは彼女だけですからねえ。何がわかるかはまだわかりませんが、彼女の辿ってきたルーツにひょっとしたらヒントがあるかも」

そう言う彼の目は研究者の目をしていた。動機は特殊だがこれも研究の一環に入るのだろう。
対象のレントラーはいつもの場所で丸まって寝ている。今では彼女の背中はカイデンの定位置となり、野生を失った姿で――お腹をさらけ出して翼を広げ――寝ている。丸まったレントラー足元にはワタッコが、ワタッコを絶縁体にしてヤミカラスが横になっている。この三匹はレントラーに懐いたのか彼女の横で過ごしていることが多い。側から見てると可愛らしいのだが、レントラーがどう感じているのかはよくわからない。でも少なくとも眠っている姿を見せるようになったのは良い兆候だと思う。

「コルサさんも今日からしばらくはホウエンに居るんでしたっけ? 流石に遠いなぁ」
「(なんで兄の動向まで把握してるんだろう)……もう明日はどうしようもないんで、やっぱりタクシーで直帰します」
「あ、そうだあ。じゃあボクの代わりにウインディを連れて行ってください。このコならいざって時強いし乗れるし、頼りになりますよ」

結局その案を通す事にした。彼の手持ちの中でも恐らく一番面識があるのはウインディだ。トレーナーとして未熟な私でも彼がいればなんとかなるかもしれない。

翌日夕方、高層ビルの建ち並ぶハッコウシティの中でも一際高いビルの一画に支社はあった。自分の手持ちとウインディのボールを確認して受付に向かう。
アポイントを確認すると受付奥のエレベーターから最上階へと案内された。想定外だったのは手持ちのモンスターボールを全て預けなければいけない、というセキュリティの厚さだ。預けても問題はない……と思うがボールの無い身軽さに少し不安になる。
このビルの最上階は一般開放されていて、展望台や高級レストラン等も入ってることもあってなのか大人のデートコースとして人気があるそうだ。元上司は展望台のカフェで優雅にお茶をして待っていた。

「時間通りだったね」
「いえ、お時間頂きありがとうございます。それで要件のシステムについてですが…」
「そんな急かさなくても大丈夫。これがそのデータだ」

そう言って出したタブレットを見ると確かに以前渡されたアカデミーの改修システムと概要は似ている。そう言えば仕事はできる人だったと思い出した。だが解せないのは持ち運べる媒体はあるのに何故こんな場所を指定をしたのか。

「確かにこれならわかりやすいですね…」
「だろう? ……このシステムは君がいなくなってからできたんだ。私が作ったのだがやっぱりどこかミスしていそうでね。君がいないと安心して仕事ができなくなってしまったよ」
「………何が言いたいんですか」
「単刀直入に言おう。君に、ガラルに戻ってきて欲しい」
「……」
「突然言われて驚いただろうが私は本気だ。何なら父も賛成している………私たちの仲も」
「え……?」

私たち? ただの上司と部下の関係がどういうこと?

「一時期、君が辞める直前の酷い噂、あれが父の耳にも入ってね。難色を示していたんだがようやく折れてくれたんだ。これで晴れてちゃんと交際ができる!」
「ちょ、ちょっと待ってください! 交際も何も副社長とはそういう関係じゃなかったじゃないですか!」
「副社長だなんて他人行儀な呼び方は辞めてくれ。以前はノミハと呼んでくれていただろう?」
「そう呼べと貴方に言われたから従っていただけです!」
「じゃあなんで好きでもない男をあんなにフォローしてくれたんだ? 君の気持ちに気付けなくて悪かった、だから」

どうしよう、話が通じない。向かい合っているはずなのに、彼が何を見て何を話しているのかわからない。

「っ……今日はもう失礼します!」
「何処に行くんだ? まだ話は終わってないじゃないか」
「離してください!」
「……失礼、お二人とも…どうかされましたか?」
「クラベル校長…」

よかった助かった。力が弛んだ隙に腕を振り解く。掴まれた場所が少し痛い。

「クラベルさん……なぜここに?」
「いえ、私はこちらのレストランで知人と会う約束がありまして………不躾ながら横入りさせていただきました。……随分と大声を出されていらっしゃいましたが…何か問題でもありましたか?」
「あぁ〜………業務のやり取りですれ違いがあって……つい白熱してしまいました。ほら、彼女の仕事に対する情熱はすごいでしょう?」
「……すみません、定時になったのでこれで失礼します」

これ幸いとばかりに急いで荷物を纏めてその場を離れた。急いでエレベーターに向かい、ホラーゲームの主人公にでもなったかのようにボタンを連打する。頼むから追いかけてくるな……来ないで……。
願いも虚しく背後に誰かの足音が聞こえる。近付いてきたその人は……クラベル校長だった。

「……顔色が悪いです。家まで送ります」
「……お願いします」

エレベーターの中で静かにこれまでのできごとを説明する。まさか彼がそんな風に自分を思っていたなんて考えもしなかった。

――その噂の出所、たぶん御曹司さんじゃないですか?

以前ジニアが言っていた言葉が蘇る。

「校内での打ち合わせの時にあなたの様子が少し違うように思ってましたが……すぐに気付けず申し訳ありません。理事長にはあなたをこの業務から外すように私から報告します」
「こちらこそ……すぐに相談できなくて…」
「ジニア先生には、どうしますか? 私からお伝えしますか?」
「…大丈夫です、帰ってきたら伝えます」
「帰ってきたら…? 不躾な質問ですがお二人は………いえ、また後日お伺いします。………不安を煽るようで申し訳ないのですが、実は明日からしばらくの間ガラルの研究会に呼ばれていまして、事情を知る人間がパルデアにジニア先生だけになってしまうんです。出来る限り手を尽くしてはいるのですが……」
「いえ、今日までにまた狙われるようなことはありませんでしたし………ちょっとさっきのハプニングは予想外でしたけど……。しばらくハッコウシティには来ないようにします」

タクシーで家まで送ってもらい、クラベル校長とはそこで別れた。彼はまだ家に帰っていない。ポケモン達を出してリビングに行く。みんな私の様子がおかしいとわかるのか、心配そうに周りを飛んでいる。遠慮して出てこなかったウインディもリビングに出すと、その首元に顔を埋めた。少し彼の匂いがする。

「…なんか、つかれた……」

その日、彼が部屋に帰ってくることは無かった。

早朝四時くらいだろうか、窓の外がぼんやりと明るくなってきている。昨日はウインディに顔を埋めたまま眠ってしまったらしく、丸まって寝ている彼と私を取り囲むかように手持ちのポケモン達も休んでいた。
スマホロトムを取り出すと新着メッセージが二件。ジニアから帰宅が遅くなる件とオモダカ理事長から以前話していたひこうタイプのトレーナーについて、今日のお昼過ぎに時間が取れるとのことだった。
メッセージ着信時間を確認すると午後九時台、夕方にあった副社長との一件については何も触れられていない。クラベル校長に限って理事長に伝えてないとは考えられない上、こういった仕事に関して彼女からリプライが何も無いというのも少しおかしい。
違和感が残ったもののそれを追求するような気力はなく、集合場所を確認すると家の近くの小さなバトルコートだった。黒いスーツを着たアオキさん……という人物が目印らしい。行けばわかるという事だろうか。
シャワーを浴びてポケモン達の食事の準備をしてから、帰ってこない同居人にメッセージを送った。日も昇り、眩しい朝日が部屋に降り注ぐ。遅くなる、と伝えておいて帰って来なかったのを見ると抜け出すこともできないような重要人物だったのだろう。
彼に送ったメッセージには、お昼の時間までに帰って来なくても良いように今日の予定を打ち込んだ。独りで行動するなと言われてはいるが、理事長推薦の人物に会うだけだし場所だって近い。
時間まで溜まっていた家事を済ませて支度を整える。誰か、他人のいない環境が久しぶりだった。つい最近始まった同居生活なのになんだか部屋がもの寂しい。

お昼過ぎ、約束の場所に行くと確かに黒スーツを着た男性が居る。なんというか…既にお疲れ気味というか、草臥れたような印象の人だ。

「えっと…アオキさん、ですか?」
「はい……トップに言われて来ました。今日はひこうタイプのトレーニングをする…ということで間違いないですか?」
「はい。今日はお忙しい中来て頂きありがとうございます。御指導よろしくお願いします」
「いえ……別に指導できる程の者ではないです。今日も営業先の接待が嫌だったのでこちらに来ただけですし」
「そ、そうなんですか?」
「…まあ、これも業務なのでやれるだけの事はします。とりあえず一戦、交えてみましょう」

随分と覇気のない、何だか拍子抜けするような人だと思っていたが、対戦となると圧倒されてしまった。流石、理事長が推薦するだけのことはある。……というか本当にただのトレーナー? 技のキレだとかポケモン達のコンディションが知っているのと違うのだが。強いて言えば本気モードのカエデやコルサに近い。

「アオキさんって何者ですか……?」
「ただの平凡なサラリーマンです。お喋りは後にして、総評、よろしいですか?」
「は、はい!」

全部で五匹、対戦で通用しそうなのがヨルノズク、カラミンゴ、補欠にヤミカラス。実力的にも申し分ないとのこと。カイデンはまだ修行あるのみ、問題は……

「随分と懐いていますね。そのワタッコ」
「ハネッコの頃からベタベタに甘やかしてたらこのザマです」

とにかく戦闘が苦手らしく、技もなかなか当てられない。ボールから出るのにも少し抵抗していたぐらいだ。

「……最近ワタッコが一番戦闘にやる気を出した時ってどんな時でした?」
「うーん……あ、暴漢に遭いかけた時ですかね。自分から出て来てくれました」
「!? それは、大変な目に遭いましたね…。……わかりました。トロピウス、盾になりなさい」
「?」
「良いですか、決して他意はありません」

そう言うと、アオキさんは向かい合った私の手首を軽く掴んできた。何せ表情も雰囲気も変わらないので正直何がしたいのかわからない。

「えっと…?」
「何でもいいんで嫌がる素振りをしてください。そしたら嫌でも向かってくるかもしれない」
「は、はい。……う、うわーいやだなー。はなしてほしいなー(棒)」
「……」

沈黙が痛い。私もアオキさんも居た堪れなくなっているのだが、驚いたことにワタッコには通じたみたいで、トロピウス越しに此方を伺っている。

「…効いてるようです。続けて」
「い、いたいなー、だれかたすけてほしいなー(棒)」
「…………」

確実にダメージを喰らっている私の心と引き換えに、その思いはどうやらワタッコに届いたらしく壁になっているトロピウスに挑み始めた。良かったウチのコ、アホのコで。

「よっぽどあなたのことが好きなんですね。随分と大切にされてきたようで」
「いいえ………さっき暴漢に遭いかけたって話しましたよね。私その時、盾になろうとしたこのコ達を見てまずは逃がさないとって思っちゃったんです」
「……」
「一緒に戦おうともしないで、主人である私が逃げ腰だったんです。その時は……まあ運良く助かったんですけど、その後にもっと強くなりたいってコもいるのになかなかそれもできなくて……」
「……逃げれる時は逃げても良いと思います」

珍しくアオキさんがはっきりと述べた。

「だってその場で出来ることは有限じゃあないですか。何が良かったかなんて誰にもわからないものですし。……それにその選択は間違ってなかったとも思います。仮にその場で彼らを逃がしていたとしても、恐らくみんなあなたの元に戻ってきてたと思いますよ。自分から見てもあなたのポケモンたちは相当あなたを好いています」
「………ありがとう、ございます」

あの時の気持ちを吐露したのは初めてかもしれない。誰にも言えなかった負い目を認められて涙が滲む。明らかにアオキさんが焦っているのがわかった。私の手首を掴んだ手に力が入る。事情を知らなければ一見、本当にアオキさんに泣かされてるみたいだなぁなんて他人事のように思っていたら、空気が冷えるような感覚がした。

「マルノーム、れいとうパンチ」

直撃を受けたトロピウスは倒れてアオキさんのボールに戻る。側にいたワタッコも驚いてボールに逃げ帰ってしまった。

「その人を、離してください」

マルノームの背後に怒った様子のジニアが立っていた。アオキさんは無罪ですと言わんばかりに両手を上げている。急いで彼に駆け寄り言い聞かせるように両手を抑え、アオキさんを睨みつける彼の顔を見上げると目の下に酷く濃い隈ができていた。

「ちょっと待ってください! 勘違いです勘違い!! 前に話したひこうタイプのトレーナー!! 特訓受けてたの!!」
「………特訓?」
「そう! …メッセージ見た?」
「あぁ…そっかあ…よかっ、た」
「ぎゃっ」

可愛くない悲鳴をあげてしまったのは、生物室の時のように倒れ込んできたからだ。側から見ると抱きしめられてるようにも見えて、周りに人が居ると恥ずかしい事この上ない。そう、ここにはまだアオキさんが居るのだ。

「あの……お邪魔なら消えますけど」
「お邪魔じゃないんで助けてください!!!!」

完全に脱力してしまった成人男性を私一人で支え続けるのは限界があり、アオキさんの力を借りて家まで彼をおぶって送ってもらうことになった。巻き込ませてしまった上に後始末までしてもらうなんて……申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

「うぅ…ごめんなさい、ご迷惑おかけしてます……トロピウスにも悪い事しちゃって…」
「いえ……何か誤解を与えるような事をしてたのは事実ですし……で、どちらまで運べば良いんですか?」
「あの…本当にいいんですか? この後まだ何か予定があったんじゃ…」
「あ〜……まあ、大丈夫です。緊急事態だったとでも言えばなんとかなります。こっちの方がまだ全然マシです」
(この人、営業向いてないんじゃないかな……)

バトルコートが家に近い場所で助かった。階段を上がり、ドアを開けてリビングのソファに寝かせてもらう。やはり大人一人を運び続けたのは大変だったようで、黒いスーツが少し乱れていた。

「ありがとうございました! 今お茶を淹れるので少し休んで行きませんか?」
「……いいえ、大丈夫です。たぶん彼、ポケモンの技で寝てるんだと思いますよ。身に覚えがあるので」
「へ?」
「では失礼します……もしまた機会があれば付き合うのでこちらまで連絡ください」

何かを書きながらそう言って渡されたのはサラリーマンらしい名刺……ではなく、今書いたばかりのアドレスが殴り書きされたメモの切れ端だった。ポカンとしてるのが判ったのだろうか、アオキさんはそれはプライベートで使ってる連絡先ですのでと言い訳のように付け加え、部屋を後にした。

ソファで寝かされてるジニアは翌日になってもなかなか目覚めず、起きたのはその日の夜だった。正直このまま起きないのではないかと心配したが、起きた直後にシャワー……と言うとズルズルとバスルームに入って行った。

「……月曜からしばらくガラルに行く事になりました」
「それはまた、唐突ですね」

眠り続けた反動か、シャワーを浴びても疲れが取れなかったらしく眉間に皺が寄っている。相当疲れているらしい。コーヒーを飲みながら一息着くとようやく話し始めた。

「なんだかよくわからないけどクラベル先生も行ってる研究会に呼ばれちゃいまして……」
「最近多いですね、ガラルからの話」
「そうなんですよねえ……不自然過ぎるほどに…」

なにか思い当たる節があるのだろうか。変わらず表情が険しい。

「それで、何か実験でもしてたんですか? 丸一日眠り続けてたんですよ?」
「あれ? 今日って………土曜日ですよね?」
「日曜の夜です」

やってしまった……と言う顔付きで目頭を揉む。時間の感覚も狂う程だとは………何をやっていたのだろう。

「あ〜普通にずっと議論してたんですよね………あの先生、そう言う意味でも有名で、中々終わらないんですよ……有意義と言えば有意義だったんですが…なんか今回は無理にでも引き伸ばそうとされて、最後にはムンナのあくびまでくらった所を無理矢理逃げてきたんです……」
「それは……なんと言うか…お疲れ様でした」
「その議論の最中に気に入られたらしくて……それでガラルに行く事に…」

あくびをくらった……って、アオキさんもやられたことがあるのだろうか。昨日会ったサラリーマンを思い浮かべてコーヒーを飲む。

「……まぁ、大丈夫じゃないですか? 今回のトレーニングで少し自信ついたし! 流石にレントラーくらいの強さになるとまだ勝てませんけど」
「……夢うつつだったんであまり覚えて無いんですけど、あの人は……?」
「理事長に紹介してもらいました。ひこうタイプの使い手で、とっても強いトレーナーだったんですよ」
「………お忘れのようですけど、なんでぼくら同居してるか覚えてます?」
「え?」

昨日のバトルコートの時に似た、冷たい空気が流れる。

「勘違いでしたけどあの人に腕を掴まれているのを見た時、正直……生きた心地がしなかった」
「……どうしたんですか、ちゃんとメッセージでも送ってたし、実際何もなかったじゃないですか」
「何もなくない」

彼が不機嫌になる理由がわからない。アオキさんの話を出した途端空気が変わった。と言うかそもそも彼がその先生の議論を抜け出せなかったことに独り行動になった一因があるわけだし、私が怒られる由縁は無いと思うのだが。

「……すみません、やっぱり疲れてるみたいです。明日マリナードタウンの船便でガラルに行きます。ウインディはそのまま連れて行動してください、朝も早いのでこれで。……おやすみなさい」
「…おやすみなさい」

結局なんか消化不良で終わってしまった。何? 勝手に怒って自己完結して話を切り上げられたってこと? 今まで彼に何度も振り回されてきたけどこんな理不尽に当たられることはなかったと思う。
考えたらこっちも腹が立ってきたので、寝ているレントラーを散々モフってツヤッツヤにブラッシングして(八つ当たり)部屋に籠った。

翌日、いつもと同じ時間に起きるとダイニングテーブルにガラル滞在先のメモが置いてあった。箇条書きで書かれたそのメモからも、まだ怒ってますよ、と言われてる気がして更に心をざわつかせる。
イライラしながらいつも通り通勤し今や立派な図書館となったエントランスホールを通過してると、今一番顔を合わせたくない人物とかち合った。

「良かった、今ちょうど理事長に私たちの事を話してたところだったんだ!」
「……は?」
「…おはようございます、…その………ノミハさんと御婚約されたと聞きましたが……本当ですか?」

誰と、誰が、婚約? いつも冷静な理事長でさえも困惑している表情を浮かべている。怒りで耳の奥からキーンと音がする。ノミハは興奮して何かを話し続けているが何も聞こえない。

なんで私の周りにいる男はみんな人の話を聞かないんだ。昨日だってしばらく留守にするって話なのに勝手に怒って、何も言わずに出て行った。

―貴女のことが好きです
―答えが出るまで待ってます

だなんて言っておいて。こんなこと言われたら意識せずにいられないに決まってる。
あの崖に落ちてたみたいに、私のいないところで、また無茶なことして誰かに助けられちゃうんだ。その誰かが私じゃないのは……

エントランスの扉が壁に打ち付けられ、耳が痛むほどの大きな音がホールに響く。今はちょうど通勤通学の時間帯だ。多くの職員生徒達が扉の方を注視していた。

「その男から離れてください!! その男が貴女を狙ってた犯人です!!!!」

ここに居るはずのない彼が、ジニアが声を張り上げる。また似合わないスーツを着て。彼の後からはガラルにいるはずのクラベル校長も追いかけてきた。

プツンと何かが切れる音がした。

何かわからんが狙われるわ、勝手に婚約をしただの吹聴するわ、勝手に怒って出てった挙句よくわからんタイミングで飛び込んで、また人の情緒を散々振り回して…

ふざけんな

静かに歩いてジニアの方に向かう。私の後方でノミハが何か騒いでるが頭に血が昇って何も聞き取れない。

「よかった大丈夫ですか? 何もされませんで「うるさい」

彼のネクタイを掴んで引き寄せ、噛み付くようにキスをした。